走り続ける人々−その12

皆さん お元気ですか? 

2010221日青梅30キロを走りる。今から14ヶ月前200810月のシカゴマラソン以来の便り。シカゴでは記録6時間半、脱水状態、25キロから膝が上がらず、帰りの車で家族に“これでフルマラソン、大会参加型レースで走ることは止める”とマラソン終止符宣言をした。

しかし未練断ち切れず帰国後 1116日、湘南国際マラソン10キロに参加、記録は5811秒。そして東芝山根さんとの約束“日本に戻ったら青梅で一緒に・・・”の2009215青梅マラソン30キロに参加。ここで20.6キロ2時間38分の関門突破成らず、無念のバス送還。しかし懲りずに531山中湖ハーフを走った。記録は2時間19分、私にとって決して悪くないものであった。よしフルを走ろう、と密かに鶴見川の土手で練習に入った。そして118東京シティマラソン皇居内堀8周半に挑戦。これはあの有名な宇佐美さんが理事長のNPOで運営の市民マラソン大会である。3周目シカゴの脱水と膝が上がらないと全く同じ状態となった。3周で止めてやっと電車に乗ったが座っても胸がむかつき気持ち悪くなり朦朧として途中下車、やっとの思いで帰宅。以上がシカゴが終わってから2009年度のマラソン歴である。最早20キロ以上は走れない壁に打ち当たっていた。

そして2010年の走りは12日皇居早朝2周から始まった。110日は大和駅伝の応援観戦、IBM大和“XX Blue”の選手から力を戴く。鶴見川土手で練習し、221日青梅マラソンに照準を合わせる。217日仕事で伊豆に行き風邪を引く。220日夜咳が酷く、頭が重いので参加断念を予定表に記入。朝8時参加証の手紙を見てTシャツを取りに行くことを決める。ワイフは走れば風邪は飛んでしまうと無責任なことを言っている。予定した電車820分に乗るため家から走る、走る。電車内でとにかく走れるだけはと、2キロ、5キロ・・・かと思いながらゼッケンを受取る。スタートラインにゼッケン番号の早い位置に並びロスタイムを稼ぐ。青梅の関門時間は号砲と同時に計測され後ろに並ぶとスタートラインまでは関門突破にカウントされないのだ。1150分スタート、晴後曇、無風状態、8度の気温、走りやすい天候だ。計測ラインまで3分掛かり、ここにある櫓の上にはスターターのテニス杉山選手、石原自民党議員等の顔があった。15キロの関門はピッチ6分で予定通り、次の20キロまでの5キロのピッチは8分で遅れ気味、取敢えず昨年の関門突破不可はクリヤー、問題は25キロ3時間5分の関門を3時間で通過、ピッチは9分一気に落ちた。膝が上がらない。立ち止まり屈伸や足をクロスしたりこれを時々行うが効果がない。ここまではどうにか関門を突破、記録が残った。あと5キロ、ゴールまで40分の関門時間、9分のピッチはでは45分で5分オーバーだ。しかもこのピッチすら厳しくなっている。係員、審判員、警察関係の人の数が路上に多くなっていた。あと2つの信号を曲がればゴールへ直ぐだ、という係員の声、路上の市民からはもう少し、もう少し、折角ここまで走ったのだから、の声援。最後の信号地点、私より年配の夫婦のような係りの人が3時間半です、と言いながら計測チップを毟た。“これが仕事”と楽しそうにやっている気がした。畜生!と思ってそこにへたり込んだ。曲がり角からゴールをみて、あと何メートル?“40メートル位です”。まだ計測時計は動いている。“よし!”と立ち上がりコースは関係者が立ちはだかっているので歩道に上がって人を除けながら走った。ゴールに飛び込んで時計をみるとグロスで3時間35分の信号が目に入った。矢張り45分掛かってピッチは9分だった。またも昨年のリベンジは失敗だった。しかし考えてみると30キロ3時間35分のグロスは今までの記録を見ても決して悪い記録ではない。むしろ難コースで厳しい関門のある青梅を最後まで走りきったという満足感が少しずつ沸いてきた。ワイフに電話したら、“風邪は治ったでしょう、公式記録にならないならもうフルは止めなさい”と。“バカヤロウ”と口には出せず唇を噛んだ。完全に風邪が抜けたのはそれから2週間後であった。矢張り自分の命は自分で守るという鉄則を改めて思い知らされている。帰りの乗り継ぎ駅拝島コーヒーを飲んだ。その旨さは私が朝何時も入れるコーヒーと同じくらい芳醇な香りと味であった。

  

  大丈夫!緊張のスタート 4分後     折り返しが見えてきた 1時間後


また皆さんにお便りできる日を楽しみして走り続けます。 お元気で!

201037日 

佐藤淑徳

横浜市青葉区の自宅にて、