さて、“今は2003年6月14日土曜日夕方です。一昨日6月12日英雄の日が休み でしたのでボルネオ、キナバル山4095Mに単独で登ってきました。”以来の お便りですで今日は2004年6月ですからもう1年以上も走りつづけていることになりす。
昨年12月ホノルルで走ること勝手にお約束しましたが、生憎都合がつかなく なり、飛行機とホテルを直前にキャンセルし参加を断念しました。もう一生チャンスが こないかと思いながらもその後一ヶ月に一度の割で10キロレースの大会に出て走って いました。一体何故こんなにして走るのか、、、、。歯をくいしばり、白髪を振り乱し、 今にも倒れんばかりにヨタヨタと、年甲斐も無く派手なランニングシャツと短いパンツで、 、、、。
そして昨日10月10日、こちらに来ている東芝の39歳の方に誘われ ハーフマラソンに挑戦しました。彼は毎年青梅を走っているランナーです。 なに、余裕を持ってゴールすればフルマラソンは何とかなるだろう、という淡い期待 で、もう一度ホノルルに挑戦をと軽く思っていました。出発の6時頃は何故か雲ひとつない快晴、無風で温度は28度位と思いました。 号砲一発ハーフから発走、後から5キロが5分遅れで出発しました。広場を出ると すぐに片側2車線の道路です。その1車線をセキュリティーポリスと競技関係車が けたたましいクラクションで先頭を走ります。途中3キロくらいで5キロの走者に 追い越されました。最初は随分大勢に追い越されるので焦りましたが良く見ると 5キロのゼッケンをつけていました。もうこの辺から大変です。路上にはジプニー、 トライシクル更にはバスが容赦なく割り込んできます。横合いの路地からも車が出て くるので両手で遮りながら走る場面もあります。バスや乗用車の熱い排気ガスをなる べく吸わないように鼻で息をし、必ず途中で水を取りうがいを心がけて走りました。 とに角完走と思って走っていると7キロ付近でトップが素晴らしいピッチで走って きました。ようやく11キロの折り返しにきましたが、なんか随分遠くに来たもんだ という気分になって足の運びが一層遅くなってきました。 もう前を走る人も見え隠れして、後ろの人もいなくなってしまいました。15キロ 付近で大会関係の車が声を掛けてきました。無理に笑顔を作り、片手を挙げて “オッケー、オッケー”とヨタヨタしながら言うと、運ちゃんが笑いながら走って いきました。もうこの辺から完全に街中の繁華街の様相を呈してきました。車の停車、 人がぞろぞろ歩いているその中をムンクの“叫び”さながらの形相で必死に前へ、 前へと、18キロ付近で走っているのか、いや走っているのだ、と自分に言い聞か せるようになってきました。 タガログ語が後ろから聞こえてきました。みるみる自転車の男と、疲れを知らない ようなチビの小学生が抜き去っていきました。さすがに腿と脹脛の筋肉が痛くなって きて走るのが億劫になってきました。ホノルルがかすんできました。もう休んでも 文句を言う奴は、、、、いや俺は日本人なのだ、この国の人と違うのは最後まで 頑張る人種なのだと、、、、。 遂に見覚えのある曲がり角にきました。ゴールが見えてきました。一応呼吸を整えた 顔付きでゴールイン、2時間44分30秒でした。
水をのんで、完走の景品を受け 取り、表彰式を見ました。なんと、1番は1時間7分22秒、大会新記録、かの東芝 の君は帰りの車に携帯で連絡してきましたが43番で1時間39分、非常に調子が 悪かったと言っていました。彼は10キロでは優勝したとも言っていましたし、 記録は35分から38分と記憶していますので残念だったかもしれません。ホノルルの参加にはここから約20万円掛かります。常夏のマニラ、グワム、 ホノルルを往復、3泊の滞在で約5時間半から6時間走ることになるでしょう。 どうするか今月いっぱい考えてから結論を出そうと思っています。
2004年10月11日 マニラ、フィリッピンにて、
佐藤淑徳
プラチナ アスリート