バンコク42.195キロに挑戦

走り続ける人々−その8・・・
タイの王宮前から郊外のハイウェーを走り、バンコク政治行政の 中心街を抜けゴールは
また王宮前に帰る絶好のマラソンコース

皆さん

“あの感動をもう一度、、、2006年バンコクマラソンへの挑戦“

皆さんのご記憶からもうなくなっているかもしれませんが、、、、。
15年前、私が初めて日本でマラソンレースを走ったのは横浜市民マラソンでした。 会社の仲間と20キロに挑戦、午前8時頃スタート。時間制限あり、10キロ地点で バスが待っており時間超過者はここまで、“お疲れさん”で出発場所に送り返される。 “ワイフに完走と言ってきた手前バスだけは勘弁してくれ”と言ったら、ゼッケンを 外して走ればいいと許可してくれた。ヨタヨタ走ったり、歩いたり、道に迷ったり しながら何とかゴールへ。もう競技テントはほとんど片付けられ、走っている人は いなかった。秋の午後の陽射しも冷たく感じるよになっていた。こんなに遅くなって、 ここまで意固地になって、仲間はどうしたんだろう。もう約束のゴールインの時間は とうに過ぎていた。その時“サトーさん、大丈夫ですかぁー”とこのマラソンを纏め てくれた会社の仲間の一人が駆け寄ってきた。“必ず帰ってくると思っていたのです が、、、、、”と手にスポーツドリンクを持って。片手を挙げながら“くぅー、 すまん。”の一言、顔を上げられず手渡しのタオルでアセを拭きながら、、、、、、。

今、私がマラソンを走るのは自分の歳を確かめる大事な理由と、加えてゴールに 入った時、あるいは入れなかった時この感激の瞬間に想いを馳せることができるの ではないだろうかと思って走り続けています。

さて、2006年11月26日、65歳の区切り、これを機に、社会に拘わって 走り続ける生活に別れを告げる時から、観客席で声援を送るサイドへの区切りとして 42.195キロバンコクを走ることにしました。この日のため、今日11月12日 朝5時から20キロを走りました。2時間半、何とか5時間を切りたいと思って いますが申告5時間半をキープするのがやっとです。5時間以上の人は朝2時スタート です。早いスタートは東京マラソンが抽選漏れという屈辱を考えればなんのそのです。午後から車で 42.195キロをスタートからゴールまでどの位置にあるか、あるいは起伏を確か めにいきました。タイの王家、行政の中心地、ここを中心としたコースで周囲の景色 もなかなかの所を走ります。又、あの感動を求めて、、、、。           (2006年11月11日、午後8時)

さて、今日は11月26日。さすがに朝夜中12時半起床なので眠れず、しかし タクシーでアパートから王宮前へ、すでに大勢の黄色いシャツの集団があちこちに みられました。1時55分太鼓踊りが終わっていよいよスタートへ。調子が良く、 ペースを押さえて走れば何とか歩くことは避けられそうと思っていました。豆腐や さんのラッパ、吹くのではなく柔らかいボールを押しつぶすと“プゥ−”という音の する逸品。気温は28度、無風で絶好のマラソン日より、とにかくゆっくりと。 2時と3時半出発、最初は5時間以上の申告、65歳以上の人々がはじめに走って、 皆が出揃うであろう8時から表彰式が組まれている。走り始めて汗が流れ落ちてきた 。2キロ毎に水補給所があり、最初の2箇所は通過したがその後は全てに立ち寄り 補給となった。1時間半過ぎた当りで3時半出発組の最初の集団が物凄いスピード で走り抜けていきました。10人くらいで5,6人がケニア勢、ヨーロッパ人、アメリカ 系とタイ系。もう走るのに限界が見えて来た。救急車が人を運んでいる。もうこの辺 でいいか、と云う誘惑が30キロを過ぎた当りから痛烈に襲ってきた。この辺から 歩くように走っている人々が多くなってきた。ラマ5世の橋を渡るとバンコク市内へ また戻ってくるルートとなっているが、南の真っ赤な太陽が雲間に顔を覗かせてきた 。少しづつゆっくりと走り始めた。しかし回りの人々の歩き様、走る様子をみると ここまでして足を引きずりながら走ることに何の意味があるのか。ひたすら王宮に 向かって、道すがら行政庁、王家の建物に大きな王様の写真が必ず飾ってあり、 もう沢山と思いながらも、この国の王様への存在の深さを改めて思い知らされます。 補給所に西瓜、バナナ、木の葉で包んだ菓子、ゲータロード、ジュース等が出てきま した。スピードは上がらず遂に足も引き摺るようになってきました。もう8時を回る とマラソンの交通規制もなくなり、一般車両、通行人、朝飯の露天商が商売を始め 信号も優先でなくなりました。今の王様、ラマ9世の王宮を一回りしてゴールです。 もう表彰式は始まり、帰りの人々も多くいました。15年前の横浜マラソンとは全く 違っていました。しかし何とか止まって休むことなく前へ、前へと歩を進めて最後の ゴールに入ることが出来たことと、周りで何かと支えていただいた人々に満足と感謝 をお送りしたいと思っています。

さて、今後の走りですが、マラソン挑戦は続けたいと思っていますが、さすがに この道の先輩の方々から助言を聞いた上で決めたいと思っています。アパートに戻り ワイフに電話したのですが少なくとも5歳は歳をとったようだと伝えました。いざ ピンピンコロリの実践となるとなかなかスパッと踏ん切りがつかないのではないか。 つまり死の1歩手前までピンピンなどと言うたわごとはまだまだ先の話となってしま いました。さて、まずは機会があればこちらのリゾートの浜辺をゆっくり走りたいと 思っています。

2006年11月26日午後8時
バンコク、タイランドにて

佐藤淑徳
プラチナ アスリート


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